大学生のころ、おじいちゃんから聞いた話をメモ書きしてた。
当時認知症もあったおじいちゃんが戦時中の学生時代の思い出を生き生きとした表情で語ってくれたのが心に残っている。大変だったと同時に、きっとそれだけ大切な時だったのだろうなと想像する。
話題が飛んだり途中で終わったりしてる文章だけど、それも良いかな、と残しておいた。
中学3年生の頃が、終戦の年にあたる。
農家の子として育ったおじいちゃんは、食べ物には困らなかったが、とにかく貧しかった。
学校では寮生活。飛行場をつくるために山を切り裂いて盛り土をし、農作業を行い、爆撃機をつくるための部品も作った。自分たちの作った兵器が沖縄に到着したことが知らされると、みんな「万歳」と言ってつかの間の喜びの時を与えられる。
少年たちにとっては食事の時間が唯一の楽しみだった。昼食の時間を知らせるベルが鳴ると、皆一斉に食堂へ向かう。決められた席はないから、早い者勝ちで少しでも量の多い食事を求めて走った。それでも育ちざかりの男の子たちにとっては、全く足りない量だった。1日で勉強できるのは、夜の数時間。毎日毎日重労働ばかり。
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大学受験に向けて勉強を始めることにしたが、参考書を買うお金がない。途方にくれていたら、同郷の中平健吉さんが受験を終えて、使っていた参考書をすべて譲ってくれた。
懸命に勉強をし、1947年に北海道大学医学部に入学する。北海道大学の学生寮である恵迪寮では、上級生・同級生を含めて5人部屋。同級生のうちの一人であるFさんとは無二の親友になった。
戦後で、モノや食料がなかった時代に少ないお金をわけあって自炊した。Fさんのおうちは裕福な薬局の家庭であったため、彼の実家からは、当時高級品だったバターが送られてくる。馬鈴薯と混ぜて作ったマッシュポテトの味は他のどの寮のものより格別で美味しい味がしたという。調理器具も十分ではなかったから、野球のバットでポテトを混ぜた。
Fさんは卒業後、大阪へ行き、内科医として開業し、現在も大阪にいるそうだ。恵迪寮の中では「恵水会」というキリスト教の勉強会を行った。人数は5人と少なかったが、そこにはFさんもおり、心おきなく良いまじわりのできる場所であった。
食糧を買うため、たくさんのアルバイトを行ってお金を稼いだ。兵隊さんの下働きに、大根抜きのアルバイト。大根抜きでは、1日700本というとんでもないノルマが課せられた。日給で700円、当時としてはとてもよいお給料。今すんでいる新琴似も当時は大根畑だった。未だにその光景が頭の中に焼き付いている。
おばあちゃんとおじいちゃんは岩手の盛岡で中平健吉さんの仲介でお見合いをした。結婚式の時、スピーチをしてくれた親友のFさんは、「小林に悪いところは一つもない。強いて言うなら、朝の大きなくしゃみくらいだ」と笑って言った。

